縁起と歴史

千光寺の縁起

修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634年)元日、出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)と賀茂役氏の娘の白専女(しらとうめ)の子として、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれました。幼少期の時より山に入り、修行を積み、修験道を開かれました。後に成人し、金剛葛城山において仏道修業に励まれました。

西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。

「元山上」「女人山上」の由来

日夜、荒行に励まれていた小角の身を案じた母・白専女は、従者と鳴川の里に登り、小角と共に修行しました。

ある日、小角が遠見ケ嶽に登り南の方を観ると、多くの山々の中に金色に輝く山を見て霊威を感じ、母・白専女を鳴川に残し、二匹の鬼を従えて此処より南へ二上山・葛木山・金剛山・友ケ島を経て熊野ヘ、熊野から大峯山の山頂である山上ケ嶽に登り、修行根本道場と定められました。

後世の人々は、役小角が大峯山を開く以前に修行したところから、「元の山上(もとのさんじょう)」と呼ぶようになりました。

一方、母・白専女は、小角が大峯山に行かれてからも鳴川の里に残り修行を続けられたとのことです。この伝えから、女人禁制の吉野大峯に対し女性の修行も受け入れたため、「女人山上」と呼ばれ、女人の修行道場として栄えました。